活動の概略
コラム
私たちは個人の遺伝子情報を使いこなせるようになるのだろうか (2014年1月)
 近未来の医療の予測の中によく個人個人が自身の遺伝子(ゲノム)情報を持つようになることが描かれる。まるで血液型のように。個人の遺伝子(ゲノム)情報 が健康維持や病気の予防・治療に役立つと期待されているのだが、果たしてどのくらい役立つようになるのだろうか。
 2005年にハーバード大学で立ち上げられたPersonal Genome Project (PGP)というものがある。プロジェクトに参加する人々のゲノム、生活環境、形質(体質)、健康・疾患に関するデータをまとめて集め、学術的な資源とし、公開するものである。特に健康・疾患に関しては参加者を生涯にわたって追跡しようとしている。そのくらいしなければ、遺伝子と健康・疾患および環境との関係は明らかにならないと思われるからだ。息の長いプロジェクトである。現在、3000人超の参加者が登録されているという。最近になって、カナダとイギリスでもPGPが立ち上げられた。
 去る11月22日、米国食品医薬品局(FDA)から23andMe社に警告文書が送られた。23andMe社は個人ゲノム解析サービス(Personal Genome Service)(PGS)を行なう会社である。この会社はインターネットを介し直接顧客から注文を受け、結果を送る”direct-to-consumer”と呼ばれる形態を取る。つまり、23andMe社と顧客の間に医療従事者が介在しないのである。FDAは個人ゲノム解析サービスが病気の診断、治療、予防のための情報を提供する医療機器に相当すると判断し、医療機器に必要な認可あるいは承認を取得せずに販売を行なっているのは違法だと警告したのだ。
 FDAの懸念はもっともであろう。米国民の安全は確保しなければならない。このFDAの警告に答え、23andMe社はゲノムの解釈に関するサービスを中止した。
 23andMe社は学術的な研究成果を根拠にして、遺伝子の変異と疾患との関係についての情報を提供してきたのであって、FDAが満足するほどの遺伝子と疾患の関係についてのデータを持ってはいないのであろう。これは実際、酷な話である。遺伝子と疾患との関係の情報提供を行なってきたのは、確かに診断と呼ばれる領域で、それを行なうにはデータ不足かもしれない。しかしながら、その情報について確証が得られるのは23andMe社が集めた40万人以上(先のPGPの3000人を思い出してほしい。これはすごいと言うべき数字である。)の顧客の遺伝子情報と、集めるべきそれぞれの顧客の疾患データとの関係を調べあげた後に得られるデータからなのではないだろうか。疾患のデータを集めるには先のPGPの話のように時間がかかるものなのだ。
 多くの顧客がPGSの結果を手にし、それにどう反応するのか、それもまた貴重なデータとなるのではなかろうか。顧客の反応パターンを解析することによって、PGSの意義、扱い方が明確になり、今後の遺伝子情報の利用、扱い方にヒントが与えられるのではないだろうか。
 23andMe社が集めたデータを今後どのように利用していけばよいのかが、これらのことから実に重要だと思われるのである。注視すべきであろう。
 個々の事柄に対して行なう遺伝子解析サービスは、すでに多くのものが出回っている。特定のガンになりやすいかどうかを調べるもの、特定の遺伝子の異常によって発症する病気を持っているかどうかを調べるもの、ある種の薬に対する反応がよいかどうかを調べるもの、など。それらを統合したものが23andMe社のサービスだといってよいだろう。多くの事柄を対象にしすぎたのか。今後、23andMe社がどのようにサービスを再開、展開するのか興味がわく。
 科学的には、不明確/不確定ながらも個人の遺伝子情報を何らかの形で使う時代がもうすでにやってきている。特に人々の健康と医療の質の向上に貢献するような形で使用される事が望ましい。医療自体が科学的な観点からみれば、その正確さの解釈に実は大きな幅がある。そのためにも、個人の遺伝子情報が、現時点でどれだけ実際の医療に役に立つのか、その有用性について明確なガイドラインを提示する必要がある。
マラリアとの闘い (2013年9月)
 2010年、マラリア感染はおよそ2億人に及び、65万人が死亡したと推定される。死亡した人の80%以上は5歳以下の子供、それもアフリカの子供たちである。マラリア感染症が風土病となっているのは主にアフリカ、西南アジア、東南アジア、中央および南アメリカであるが、気候変動によりさらに感染地域は広がるおそれがあると心配されている。
 マラリアは、結核、エイズとともに3大感染症と言われ、その制圧には世界の注目が集まる。WHOを中心にマラリアの予防、治療活動が行なわれている。世界規模で活動しているいくつかの団体と活動内容を簡単に以下に示す。
* Bill & Melinda Gates Foundation
  ワクチン、治療薬の開発などへの資金提供
* PATH Malaria Vaccine Initiative
  ワクチン開発とその普及、RTS,Sは有力な新ワクチン(特に乳児、幼児対象)
* Medicines for Malaria Venture (MMV)
  治療薬の開発とその普及インフラの構築
* The Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria
  繊維に殺虫剤を練り込んだ蚊帳の配布、治療薬を安価で届ける仕組み構築
 現在、マラリア治療薬の主力となっているのは生薬由来のアルテミシニンである。アルテミシニンにはすぐれた薬効があるが、最近になって耐性マラリア原虫が出現し問題となっている。幸いにも、アルテミシニンの誘導体と他の薬剤との新しい混合薬が開発されたので耐性問題にも多少はブレーキがかかると期待されるが、さらに効果的な薬剤を求める努力は必要であり、実際その取り組みは進んでいる。
 マラリアに対するワクチンの開発には長い歴史があるが、今なお実用的で効果の高いワクチンは開発されていない。そんな中、RTS,Sというワクチンが開発されつつある。昨年、大規模第III相の試験結果が発表されたが、それによればRTS,Sのワクチンを受けた乳児ではコントロールに比べ1/3ほど発症が減少したという。RTS,Sは生物工学的に作製したマラリア原虫のタンパク質とB型肝炎ウイルスの一部、それにアジュバントを加えたものである。さらに、先月(8月)、弱毒化した原虫を丸ごとワクチンにしたPfSPZの第I相試験の結果が発表された。ワクチンを接種した6人のボランティアのうち6人とも発症しなかったという。非常に少人数の試験結果ながら、これまで100%の予防効果を示したワクチンはなかったため、早くも大きな期待が寄せられている。この原虫を丸ごと使用してワクチンにする方法は、すでに1970年代に試されたのだが、その当時大量に原虫を増やし、それを弱毒化してワクチンにすることが技術的に不可能だったため実用化されず、忘れられていたのだった。
 インドの研究所で、へム合成のための遺伝子をノックアウトした原虫は蚊の中で感染型、sporozoitesになれないことが示された。この成果からへム合成系を標的にした治療薬の開発などが考えられる。新しいアプローチといえよう。このような研究がマラリアとの闘いに勇気を与える。
 その他迅速で簡便な診断薬の開発の必要があるなど課題は多いが、それでもマラリアは予防可能で治癒可能である。適切な水の管理をし、殺虫剤を用い、蚊帳を張って寝れば、蚊にさされる危険を極力抑えることができる。現在利用できる薬で充分な治療をすることができる。しかしながら、何故マラリア感染患者をもっと減らす事ができないのか。
 アフリカの感染地域では公共の診療所に行けば治療薬は無料で手に入れることができる。しかし、そこまで行くには徒歩しか手段のない人々が多い(車も道路もない)。病気に対する知識も診療所も知らない人々も少なくない。そのような人々が歩いて3、4日かかる診療所へ出向くだろうか。また、病気や治療に対する知識が得られたとしても、法外なお金を払わなければ治療薬を得ることができない場合も多々あるらしい。また、診療所や病院に治療薬の充分な在庫がなく入手しにくいこともしばしばあるようだ。それらの問題を解決すべく、どこでも安価で治療薬が手に入れられる仕組みを構築したり、地元で’drug shopkeeper’を養成し、へき地でも彼らが赴いて迅速にマラリアの診断や治療薬投与を行えるようにしたりする取り組みが行なわれている。
 これらのことからわかる通り、予防法(ワクチンなど)、治療法(特効薬など)の開発は大事だが、開発されたそのワクチンや治療薬をどのようにして診療所や患者など必要な人々に届けるかが実はもっと現実的で重要な課題なのである。これがマラリア患者を減らす一つの鍵であろう。実際に現場で使われなければワクチンも治療薬も役には立たない。
 映画『World War Z』(本年6月公開、日本では8月)は、突如発生した奇妙な感染症に対する‘ワクチン’を探し求める話だ。‘ワクチン’を探索し製造することも大事だが、それをどのようにして人々に届けるかは、(しかも非常事態の最中に必要な人々に届けなければならない)それ以上に大事なことである。映画はその大事なことが描かれないままで終わってしまう。寂しい限りだ。主演のブラッド・ピットと乳ガン遺伝子検査で注目を浴びたアンジェリーナ・ジョリーの二人は、私財をなげうってアフリカの子供たちのための援助を行なっているので、この大事な問題点に気がついているはずだが、取り上げにくい難しい大きな問題なのであろう。
 熱心にマラリア制圧の活動は続けられているが、「患者に予防法、治療法が届いてそれが実施される仕組み」の構築は後手となっているようだ。この仕組みの構築にはマラリア感染地域の人々の参加が不可欠であろう。うまく仕組みができたならば、その仕組みは感染地域以外の人々にも役に立つであろう。なぜなら、新しい感染症にもしも襲われたならば、それは非常に重要なツールとなるからだ。マラリアとの闘いから私たちが学ぶ事はたくさんある。
ガン予防と個の医療 (2013年7月)
 今年の5月、女優アンジェリーナ・ジョリーさんが乳ガン発症予防のため、両乳房を切除したとのニュースが世界中を駆け巡り話題をさらった。乳房切除の賛否はともかく、遺伝的に乳ガンにかかる危険が高いかどうかを特定の遺伝子の変異のしかたによって知る事ができるという遺伝子検査の存在を、世間一般に知らしめたことは大変意義深い。
 ところで米国のMyriad社がこの遺伝子検査に用いられる遺伝子(BRCA1, BRCA2)の特許を持っていたが、翌6月、米国の最高裁は、その特許を無効とする判決を下した。ヒトの遺伝子は特許の対象とは成り得ないと判断したためだ。
 Myriad社の遺伝子検査では、これまでに知られているBRCA1とBRCA2の発ガンに結びつく変異型をすべて検出できないこと、遺伝子検査の価格はMyriad社が自由に設定できることなど、患者に不都合なことが多かった。また、BRCA1、BRCA2の使用が制限されていたため、Myriad社以外の研究者がそれらの遺伝子研究を自由に行なうことができなかった。そのために、遺伝学に関わる研究者や医療従事者、遺伝子カウンセラー、ガン患者等を代表して、米国自由人権協会(ACLU)とPublic Patent Foundation(公共特許財団)がMyriad社と米国特許庁を相手に訴訟を起こしていたのだ。
 ヒトの遺伝子そのものは特許の対象とはなり得ないという最高裁の判断は、妥当だと思われるが、これはこれまでの特許庁の方針に転換を求めるものだ。Myriad社以外でもBRCA遺伝子を用いた遺伝子検査が開発できるようになったわけで検査を受ける側には朗報である。
 一般的に女性のおよそ12%が一生涯のどこかで乳ガンを発症すると推定されるのに対し、BRCA1あるいはBRCA2にガン発症に関わるとされる変異がある場合、その遺伝子の変異をもつ女性の約60%が乳ガンを発症すると推定されている。このBRCA遺伝子検査は、乳ガンと卵巣ガンの発症の危険度をある程度予測できる。発症の予測ができるのであれば、発症予防ができるのが望ましい。乳ガンや卵巣ガンの予防には、いくつかの方法が提案されているが、決め手となるものはない。その中で比較的、有効な手段とされているのがガン発症前に行なう乳房切除術、卵管・卵巣切除術である。米国では、BRCA遺伝子の検査で危険が高いとされた人のおよそ1/3がこの切除術を受けるそうである。費用がかかるので誰もが簡単に受けられないのが難点である。乳ガン治療用のタモキシフェンを用いる予防的な化学療法も行なわれている。この治療によりBRCA遺伝子の変異を持つ、持たないに関わらず、乳ガン発症の危険が高い女性の約50%でその危険を低下させることがさまざまな臨床試験で示されている。
 乳ガン細胞中の遺伝子の発現状態をみて(どのような遺伝子が働いているかをみて)ガンが再発するかどうかを判定する検査がある。この検査で再発する危険が高いとされた人には、例えば手術後に積極的に化学療法を行ない、再発する危険が低い人には定期的な再発モニター検査だけを行なうというような各個人の状態に合わせた治療ができる。再発前に一歩先を行く予防という策がとれるわけだが、その予防策もまだ完全とは言い難い。
 より有効なガンの治療法の開発はもちろん必要であるが、ガン発症の予測とその予防、ガンの再発予測とその予防という、先手が取れるようになることも、ガンとの闘いでは重要な戦略であると考えられる。ガンの発症や病状の進行具合には個人によって大きな違いがある。遺伝的に発症の危険が高いかどうか、また再発する危険が高いかどうかを判定する検査があるのはその個人差が大きいことに起因する。ガンに関連する遺伝子のみならず、タンパク質や他のバイオマーカーを利用して、先手必勝型で各個人に応じたガン攻略が構築できれば理想的だ。もちろん、誰もが簡単に享受できる攻略法が欲しい。
21世紀は脳の時代? (2013年5月)
 2013年4月2日、オバマ大統領はBRAIN (Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies) Initiativeの骨子を発表した。産官学共同の大事業で、10年以上続けられる予定だが2014年度の予算には1億ドルが計上される。
 脳のさまざまな領域で同時にニューロンが興奮する時の、そのすべての活動を再構築すること、うまくいけば脳回路の機能がわかる地図の作成をめざす。まず、この複雑なニューロン活動の実態をとらえることのできる技術の開発が必要で、BRAIN Initiativeはこのような次世代の脳研究を推進する新技術の開発に力が注がれる。
 現在入手できる脳の地図はAllen Institute for Brain Scienceによって作成されたものがある。これは、「脳アトラス」と呼ばれるもので、脳内のニューロン間の物理的結合や各ニューロンの独自の遺伝学的パターンが記載されている。この地図から脳の構造を知ることはできるが、死んだ脳の研究であるため、どのようにしてニューロン活動が脳の機能と結びつくのかといった情報は提供しない。
 脳が生きた状態のままで、MRI(磁気共鳴映像法)やEEG(脳波記録法)などを用い、ある行動を起こす時はどの脳領域の活動が活発になるかという大まかな見取り図を得ることが今でも可能だが、神経の基本単位であるニューロンレベルでは科学者は未だほとんど何も語れない。
 どのようにしてニューロンが協同して働き、さまざまな行動や精神現象を引き起こすかを知るには、活動している時と同時にニューロン活動をとらえ、また多くのニューロンが介在する回路と格闘する必要がある。既存のセンサーでニューロンの電気的活動を記録することはできるが、一度にモニターできるのは100以下のニューロンに限られている。
 同時に何千、あるいは何百万ものニューロンを、しかも脳のさまざまな領域での活動を検出し記録するには、新規の技術開発が不可欠である。脳内の電気信号や化学信号を検出する低侵襲性のプローブをナノファブリケーション技術で作り出せるかもしれない。あるいは電気活動や神経伝達物質などが検出できるナノ粒子を用い、深部の脳活動さえも検出できるようになるかもしれない。ナノテクノロジーのニューロサイエンスへの応用の期待は大きい。
 その他、ニューロン活動を検出するさまざまな手法が開発され、それらを用い、まずは小さな脳の回路、例えば線虫やハエといったものから研究が進められるだろう。直接ヒトの脳を探索するのは先の話だと思われる。なぜならヒトの脳には千億のニューロンとそれらを結合する何兆というシナプスがあるのだから。
 たとえヒトの脳を研究することはないにしても、BRAIN Initiativeの成果は神経科学と医学に多大な影響をもたらすであろうと期待される。具体的には認知や思考といった脳活動の基本理解や自閉症から統合失調症、またアルツハイマー病やパーキンソン病などの神経疾患の診断治療に役立つ情報が得られるだろう。
 一方、欧州連合ではThe Human Brain Projectが本格的に始まろうとしている。この計画は、ニューロン研究を体系的に押し進めると共に脳についての現在の知識を世界中から集めて、スーパーコンピュータを用いたシミュレーションにより分子やニューロンのレベルから神経回路までヒト脳のモデル構築を試みるというものだ。1月に欧州委員会はこのプロジェクトを承認し、資金提供することを決めた。ヨーロッパおよび世界中の80以上の研究機関が参加し、2013年から2023年まで続く10年計画で、総予算は約12億ユーロと推定されている。
 このプロジェクトの成果も神経科学や医学に大きな貢献をすると思われるが、特に新しいコンピューティング技術の開発に期待が寄せられている。現在のスーパーコンピュータシステムをただ大きくしても、電力消費とコンポーネント故障の確率が上昇するだけで、すぐに制御し切れなくなるとされている。そこで、新しい技術として脳を模倣した神経形態学的(neuromorphic)なコンピューティングシステムが有力視されている。それは低電力で動き、大規模の並列計算機構を備え、塑性のあるコンピュータとなる。The Human Brain Projectの主目的の一つは、全く新しい状況に直面しても、それまでの学習の積み重ねを下に判断し適切な行動ができる能力を備えたneuromorphic computing systemの構築である。
 BRAIN InitiativeやThe Human Brain Projectは長期にわたる大事業であるから途中で何が起こるか予想がつかない。潤沢な資金調達を常に確保しなければ中止の憂き目にあうだろう。思わぬ研究成果により、それ以後の研究方向が大転換するかもしれない。完成図のない模型を組み立てるようなもので、最終ゴールに待ち受けているものが何なのか誰も知らないのである。BRAIN Initiativeはヒトゲノムプロジェクトに匹敵する大事業だとされている。ヒトゲノムプロジェクトは予期された明確なゴールに到達したが、たちどころに多くの遺伝学的、医学的問題が解決されたわけではなく、新たな疑問と課題が押し寄せてくることになった。もっとも、次世代DNA配列解析技術などの新技術開発を後押しする力となったこと、ヒトゲノムプロジェクトへの投資額の140倍がアメリカ経済に戻ってきたことなどは、大きなプラスの成果であった。
 BRAIN InitiativeとThe Human Brain Projectの両計画を通じて、多くの分野で新しい手法や技術が生まれることに期待したい。脳が認知や思考を行なっていると考えられているが、脳を探索すれば、それを現代科学的に考えられる世紀となるのであろうか。
データサイエンティスト (2013年3月)
 情報が氾濫している時代といわれて久しいが、IT分野のホットな言葉として昨今「ビッグデータ」が大きく取り上げられるようになった。ビッグデータとは従来のデータベースシステムでは取り扱うことができないデータのことを言う。ビッグデータの特性は3Vsで語られるが、その3つとは、これまでに想定された処理能力をはるかに超えたデータ容量(Volume)、要求される伝達速度が速すぎる情報データ (Velocity)、あるいは元のデータが文章あり、画像あり、分析機器からの生データありとさまざまな形の集積データ(Variety)、である。
 ソーシャルネットワーク上のやりとり、例えばフェースブック上の一日のデータのやり取りは200〜400テラバイトにもなるという。衛星から送られる画像、商品の取引履歴、国勢調査などの政府関係の記録、金融市場のデータなど、将来ビジネスに有用と思われるビッグデータを挙げれば切りがない。
 ビッグデータの活用で経済や社会はどんな展開をするのだろうか。
 今でもオンラインショッピングをすると、いや、仕掛けると、数秒後からうるさいぐらい「おすすめの商品」という情報が提示される。これも一種のビッグデータの活用だと思うのだが、便利なようでいてこのおせっかい極まりない相互作用にいらついている方が既に私を含め多くおいでになるだろう。さらに進むとどうなるのだろうか。
 ビッグデータを活用することで、さらにビジネスチャンスが生まれたり加速したりする可能性を模索するために、活用実現に向けてさまざまな企業や業界がビッグデータプロジェクトを立ち上げている。最近の調査によると、それらのプロジェクトの多くが頓挫しているらしい。プロジェクトが完成できない理由は何か。大きく3つ挙げられるという。
 1つ目の理由は、ビッグデータを活用したい企業や機関と、実際にビッグデータを処理加工翻訳するITのプロとの協調、連携ができていないこと。
 2つ目は、プロジェクトに必要な時間と労力を低く見積もる傾向にあり、資金等が充分に用意されないこと。
 3つ目はビッグデータを扱った経験のある人材が不足していること。これは当然であろう、これからの仕事なのだから。これは後述するデータサイエンティストが大きな役割を果たすことになる。
 現状を見る限り、ビッグデータ活用の実現は前途多難と言えそうだ。
 さて、生物医学分野のビッグデータといえば現在ではゲノムデータが真っ先に挙げられる。ヒトゲノム中のDNA塩基対およそ3億、それを解読することが非常に容易になってきた。2007年頃にはヒトゲノムを1セット解読するのにおよそ数ヶ月と100万ドルかかっていたのが、2012年になって遂に1日と1000ドルほどでできるようになった。こうなるとデータが驚くほどの速さで増えることになる。DNA配列解析の律速段階は、数年前まで実験手法上の化学的な問題であったのが、現在では得られたデータの処理問題へと変わったのだ。まさに容量が大きすぎることによるビッグデータの問題で従来のシステムでは扱えなくなっている。世界をリードするゲノム研究所であるサンガーやブロードやBGIでは、膨大なデータ処理に自前でハードの充実、ソフトの開発を行なうことができるが、それらは例外だ。
 今後、ビッグデータを扱うには新しいシステムが必要である。HPC、Open source soft ware、Cloud 、HaDoop、...新しい概念、ツールが次々に登場するのでITに精通していなくてはならない。かたや、データそのものが理解できるのは、たとえばゲノム情報が理解できるのは生物医学分野の専門家である。その間を取り持つ必要が生じるが、それをデータサイエンスと呼ぶ。この大事な仲介者が数学とプログラミングに明るく、科学の資質をもったデータサイエンティストである。そういう人材が今まさに求められているのである。
 ヒトゲノムを解析することで病気の診断や治療に役立つ情報が得られると期待されているが実際の応用としてガンに特化した「The Cancer Genome Atlas(TCGA)」というプロジェクトがNIHを中心に進められている。また他の研究機関とも連携してプロジェクトから得られたデータの蓄積、解析、応用をおこなうデータ網が構築されつつあるが、データサイエンスがなければこのような構築も容易ではないだろうと想像できる。このデータ網はガンの診断/治療へのビッグデータの有用な活用例となるだろう。「10年後にはどの患者もガン細胞の遺伝子解析を望むようになり、テーラーメードの治療を受けるようになるだろうと期待している」とTCGAプログラムのディレクターOzenberger氏は発言しているが、この言葉の実現もデータプロセシング技術ならびにデータサイエンスの発展によるところが大きいのではないかと思う。
ホロデッキの夢 (2013年1月)
 初春にちなみ夢の話をひとつ。
 テレビや映画でおなじみの「スタートレック」に出てくるホロデッキをご存知だろうか。そのホロデッキを体験する夢をみたい。
 カリフォルニア大学サンディエゴ校にスターケーブという施設がある。360度に16面のパネルが備え付けられている。それに、パノラマで撮った映像を同調させて映し出せば、ディズニーランドにある施設のひとつになりそうだが、大きく違うのはその空間で使われるソフトウェアだ。そのソフトウェアはスターケーブ内に3次元で実物大の仮想建築空間を作り出す。
 例えば、ある建物の内部をデザインしてスターケーブ内にその実物大の仮想空間を作り出す。すると、その空間を好きなように動き回れる。その上、少し天井が低いなと思えば即座に天井を動かして思い通りの高さに調節できるし、壁の色を変えたいなと思えばたちどころに変えられるのだ。また、ソニケーブというのもある。これは与えられた3次元空間で正確に音響状況を設定する技術だ。
 映画”Avatar”の監督James Cameron率いる”Digital Domain”という会社が、ラッパー歌手Tupac Shakurの実物大空中立体映像(ホログラム)を実際のステージ上に作り出した。Shakurは1996年に死亡したが、彼のコンサートの記録映像から情報を取り出しコンピュータによって再構築され、さも生き返ったかのような彼のパフォーマンスが目の前に繰りひろげられたのだった。
 東京大学大学院情報理工学系研究科の篠田裕之教授は何の器具も装着しない手、素手に触感を作り出す技術を開発している。まだ手のひらの上で感じられるもの、小さいものの触感しか実現されていないが、将来的には、実物大のホログラムを生身の人間と感じることができるようになるのも夢ではないのではないか。
 UC Berkeleyの Dr. Jack Gallantは、機能的磁気共鳴画像法 (fMRI) を用いて人が何かを見ているときの脳活動の情報を詳細に取りコンピュータで解析し、今度は脳の活動パターンから人が見ているものが何かを再現することに成功している。再現された映像はまだはっきり、くっきりとはいかないが、脳情報解析のコンピュータモデルのひとつは完成したと言ってよい。これをもっと先にすすめれば、脳の活動から人が何を考えているかを解析したり、記憶の中の情報を取り出したりすることも、可能になるかもしれない。“夢”を人にみせることも夢ではないだろう。fMRIのような大掛かりな装置を使わずに脳情報を取り出せるようになるといいのだが。
 そこで、これらの技術を組み合わせるとどうなるか。実物大の仮想空間、その中で本物のように触れる事ができる実物大の人間や動物のホログラムが動き回る。それらは、コンピュータの中に記憶されている情報から、または人が体験したこと、考えていることから再現するのでもいい。Captain Picardが時にパリの街を散策し、Lieutenant Barclayが自分で作り上げたファンタジー世界に酔いしれる。まさにここにスタートレックに出てくるホロデッキが誕生するのだ。現実となる夢をみている気がする。
 はるか彼方の未来だと思っていた世界が迫り来ることを予感させる今日このごろの技術進歩。この技術進歩は身近な生活もどんどん変えていこうとしている。人の心の準備は充分だろうか。
後発医薬品としてのバイオシミラー (2012年11月)
 2012年11月6日、オバマ大統領が再選された。これで、アメリカの医療保険改革、通称「オバマケア」は生き延びることになった。以下のような製薬業界の動きにも水をさされる心配がなくなって関係者たちは胸をなでおろしているだろう。
 オバマ大統領のPatient Protection and Affordable Care Act(PPACA)が違憲かどうかをめぐって審議が行なわれていた最高裁では6月28日、PPACAの大半を支持する裁決を下した。PPACA の中にはBiologics Price Competition and Innovation (BPCI) Act of 2009が盛り込まれており、それも最高裁によって支持されたことでようやく米国でバイオシミラー医薬品が市場に出る見通しとなった。この法律はFDAが認可した生物学的製剤と互換性のある製剤、すなわちバイオシミラーである製剤の簡略化された承認過程を創出することを義務づけるものである。一方FDAはEMA(欧州医薬品庁)から遅れること7年にして、バイオシミラーの承認・上市のためのガイドラインを3件作成しそのドラフトを2月9日に発表しているが、最終的にガイドラインが定まるのはこれからである。BPCIはまた従来製剤の最初の認可公布日から12年間のデータ独占期間を定めている。これは特許が切れても認可12年以内であると製剤に関するデータを入手できないのでバイオシミラーとの比較ができない、すなわちその間はバイオシミラーが市場に出ないことを意味する。本格的なバイオシミラーの上市にはまだ時間がかかりそうだ。
 とはいえ、バイオシミラー解禁に向け既に米国内ではさまざまな動きがある。先日、手に取ったバイオテク関係の雑誌の新製品紹介ページに次のようなものが載っていた。
 「バイオシミラーの立体構造の同等性/同質性検査キット
 ―当製品は分子レベルでバイオシミラーモノクローナル抗体の3次元構造を分析するものです。バイオシミラー製品開発のさまざまな段階で、例えばセルライン選択から製造工程開発、剤型試験から品質検査まで幅広く利用できます。」
 とある。Avastin(大腸がん治療)用、Erbitux(頭頸部ガン・大腸ガン治療)用、Herceptin(乳ガン治療)用、Humira(関節リウマチ治療)用キット他、数種類をそろえている。
 Merck社はMerck BioVentures (MBV)を立ち上げた。Abbott社はHumiraのバイオシミラー生産のためAbbVieという会社を最近スピンオフさせた。米国のジェネリック医薬品企業大手Hospira社はすでにヨーロッパでエリスロポイエチンのバイオシミラーRetacrit、ならびに顆粒球コロニー刺激因子バイオシミラーNivestimを販売している。近年中に予想される米国でのバイオシミラー解禁に向け、今年から米国でRetacritの第III相臨床試験を始めた。今後は、インスリン、インターフェロンαおよびβ、モノクローナル抗体医薬品のバイオシミラー登場が予想されている。上記の検査キットはこれらの状況を見据えての製品なのだ。
 一般的にジェネリックは探索研究開発費がかかっていないので薬剤価格を安く設定できる。ところが従来の比較的構造が簡単な低分子の医薬品とは違ってバイオシミラーは設備投資にお金がかかり、また製造法が複雑なので製薬企業ならどこでもできるというわけにはいかない。まずは大手がバイオシミラーを狙うことになるが旧東ヨーロッパやアジアの新興国の企業も狙っている。ヨーロッパで上市されているヒト成長ホルモンのバイオシミラーは従来品の70〜80%の価格で売られている。インドにはジェネリック製薬企業が多く競争力もある。当然バイオシミラーの開発をねらっている。インドで製造されると従来品の約1割で生産可能だという話だ。
 価格は従来品より下げることができても、すぐに売れるわけではない。ヨーロッパでもそうだったがバイオシミラーの認知度が医者や患者の間で低く、また製品の品質と安全性に対する信頼が薄いので、なかなか切り替えがすすまない。それでも世界的に問題となっている医療費削減のためにはバイオシミラーの登場、それらへの切り替えが期待されているのである。
 こういった状況の中でバイオシミラーを始めとしたジェネリック医薬品への切り替えを促進するにはどうすればよいか。医薬品の品質は保証されなければならないが、100%安全とはいいきれない。残念ながら万人に効く薬は今のところないのが事実である。副作用があり、ときには予想以上に害をもたらす。医薬品すべての薬害を救済するための社会システムの構築が必要となろう。例えば、薬剤に保険を課し、薬害への保証とする。それにより、従来品、後発品の選択が自由に行なわれるようになると期待するのだがどうだろうか。
宇宙産業の到来 (2012年9月)
 5月22日から31日までに行なわれたSpace Exploration Technologies Corporation (Space X社) の国際宇宙ステーションへの物資輸送ミッションは成功裡に終わった。輸送宇宙船DragonをのせたロケットFalconの打ち上げ、Dragonの国際宇宙ステーションドッキング、さらに1週間かけての荷物積み降ろしの後にはステーションで不要になった機材を積んで地球に帰還。無事、南カリフォルニア沖の太平洋に着水したのだ。試験飛行ながら民間企業で初めての快挙である。ロケットも宇宙船も民間企業で作られたものだ。
 NASAはスペースシャトルの運用を、昨年2011年をもって終了したが、そのスペースシャトルに代わって乗員と貨物の輸送を民間企業に委託しようとしている。そのために”Commercial Crew and Cargo Program”を作り、8億ドル以上の資金と技術の提供をいくつかの企業に行なってきた。今回のSpace X社の打ち上げもこのプログラムの支援を受けている。民間企業に国際宇宙ステーションへの輸送はまかせ、NASA自身はもっと挑戦的で未知の課題である小惑星や火星探索に傾注したい考えなのだ。
 すでに、宇宙へ向けての輸送業はビジネスとなると考える企業がいくつか出てきており、早くも企業間の競争が始まろうとしている。その中でSpace Xのすぐ後を追いそうなのが、NASAと貨物輸送契約を結んでいるOrbital Science 社。ロケットAntaresと宇宙船Cygnusは建設済みで、この秋の打ち上げ試験を予定している。Boeing 社はCST-100と呼ばれる乗員および貨物を運ぶ宇宙カプセルを開発している。NASAから1億ドル以上の資金提供を受けており、打ち上げ試験は2015年と2016年に予定している。また、密かに開発を進めているのがNASAから2200万ドルの資金を得たBlue Origin of Kent社で、Amazonの創業者Jeff Bezosが率いる。ちなみにSpace X社はオンライン決済サービスをするPayPalの共同創業者Eon Muskが率いているのが興味深い。
 先のSpace X社は5月初め、研究用、そして将来的には観光用となる宇宙ステーションを開発中の企業、Bigelow Aerospace社と契約を交わした。Space X社は輸送を担い、Bigelow社は宿泊施設を提供するというわけである。
 2011年10月、Virgin Galactic社は、ニューメキシコ州に建設したSpaceport Americaの落成式を行なった。民間専用の初めての宇宙港で、宇宙客船SpaceShip Two とその母船WhiteKnight Twoの発着基地となる。観光のための宇宙飛行―準軌道に乗り地球と宇宙見物、また無重力を体験するーを提供する予定で、現在その宇宙旅行の予約受付中だが、今年に入り予約客は500人を超えたという。費用は20万ドル、申込金2万ドル(払い戻し可)。どなたかいかがだろうか。
 月が人気の観光スポットになるのもそう遠くないのかもしれない。子供の頃、宇宙生物学者(xenobiologist)になるのが夢だった。さすがにこの夢はほど遠いだろうが、せめて生命の痕跡を探しに火星に行ってみたいものだ。
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